2025年5月のある日、あるイベントのフライヤー(チラシ)に問題があるという連絡が当団体に舞い込みました。

[出典元: https://www.instagram.com/4m_gas/p/DHiayDOyxeI/]
制作者の意図は?
一目見た感想は「ぎょっとした」。2025年に、東京で行われる音楽イベントのフライヤーで、なぜ奴隷と思しき黒人女性が踊っているのか。アメリカの奴隷労働を象徴する綿の花が舞っているので、おそらくアメリカの奴隷制時代のものに間違いない。けれど、制作者の意図が全くわからないので、会場の担当者にツテがあった私は事情を話し、フライヤーの制作指示をしたというイベントの主催者につなげてもらうことにしました。まず、大前提として、このようなイメージをイベントのフライヤーとして使用することには多くの問題があります。
1. 歴史的背景の無理解と歪曲表現
綿花というモチーフからアメリカの奴隷制度の描写と察せられるが、この制度をあえて描く必要はあるのか?決して、画像のように「喜ばしいもの」ではなかったはず。
2. 不適切なマネタイズ
この表象を用いての入場料を得ること。
3. 当事者の不在
これまでの当事者らによる運動や声が、無化されているように感じられる。なぜこの表象を取り上げるに至ったか?問題視したり止める者はいなかったのか?
4. 無自覚な差別意識が拡散されることの危険性
すべてはこれに集約される。ルーツを持つ者にとっては到底受け入れ難い画像。このフライヤー一つで差別が生まれるという直接的な効果はないが、世間一般に無意識レベルでのブラック・ブラウンの人たちに対するイメージを植え付けることによって、差別助長にもつながる恐れがある
電話で主催者と話をしましたが、残念ながらお互いが納得できる着地点に到達することはできず、私は会話内容をJapan for Black Livesに持ち帰り、団体内外のブラック・ブラウン当事者と意見交換をしました。
相手方にこちらの見解をまとめた上でさらに対話を持ちかけたものの、こちらの懸念点や引き続き当事者の人たちを踏んでいる現状についての改善は見られず、間を取り持ってくれていた方からの話もあまり刺さっていない状況で、とうとうイベントは何事もなかったかのように開催されてしまいました。
今回は事後的にはなりますが、イベントに関わった方や、今後イベントのフライヤーをはじめグッズなどを制作する方にも自分事として捉えてもらえるよう、なぜこれが問題なのか、誤ったイメージを流布して当事者のイメージ全体の害にならないためにもどういう点に気を付ければよいのか、ブログとしてまとめました。
主催者:イベント開催までの盛り上がりを失速させたくないからフライヤーの取り下げや謝罪を拒否。
主催者の話によれば、なぜこの表象を使ったのかについて
「(オールジャンルですが)主にHIPHOPを中心にしたイベントである為、ブラックカルチャーを用いたものをデザインに落とし込みたかったし、周年という節目や、どれだけの温度感なのかをブラックカルチャーファンと重ねて表現したかった。」
ということでした。初めて話をしたのがイベント開催前だったため、私たちは以下のいずれかを求めました。
- フライヤーを取り下げる
- 取り下げが無理だとしても、なぜこのようなフライヤーを作るに至ったかという釈明と、使うべきではない題材を使ったことに対する謝罪をイベント前にSNSに掲載する
ですが、どちらも難しいと回答されました。理由としては、イベントに向かって盛り上がりを持っていきたい中で、SNSでそういう説明を発信すると失速するから、開催後であれば可能ということでした。その上で、表現をする者として受け取る側にどう受け取られるかはコントロールできない面がある、ということをコメントしていました。
奴隷制度は「ブラックカルチャー」?
まず第一に、主催者の言い分のなかで疑問として浮かぶのは、かつてのアメリカの奴隷制度は果たして「ブラックカルチャー」と言えるか、という点です。HIP HOPは言うまでもなく、アフリカン・アメリカンの人たちが作り出し築き上げた文化です。その祖先が隷従させられていた、あるいはもっと近い曽祖父母や祖父母が奴隷労働や、自由とは名ばかりで奴隷制度時代とほとんど変わらない生活を強いられていたことも事実です。
ですが奴隷にされた人たちは、わけもなく奴隷に「なった」り、自ら選んで奴隷になったのではありません。拉致され、家族からも引き離され、ろくな衣食住も与えられず、そのうえ、夜明け前から夜更け過ぎまで、炎天下のなか綿花摘みを強要され続けていました。「奴隷」ですから、口答えは当然許されませんし、態度にも注意深くあらねばなりません。悪態をついてしまうと、あるいは、奴隷主の機嫌が悪いというだけで、背中がただれるほどの鞭打ちを受けたり、首に縄をかけられ、馬で引きずられてズタズタになった体を人目のつく木に吊し上げられたりと、想像を絶する数々の理不尽が彼らを襲い続けていたためです。この理不尽だけにとどまらず気の済まないアメリカの白人たちは、死んだままの奴隷がぶらさがる木に、火をつけていきました。死してもなお、尊厳は踏みにじられ続けたのです。
奴隷の黒人女性がレイプ被害に遭うことも、決して珍しくありませんでした。レイプ犯の子供を産むほかなく、結果的に、奴隷の黒人女性が奴隷主の「財産」を増やすに至ったことも、日常茶飯事そのものでした。想像がつかなければ、是非、映画『それでも夜は明ける』(原題:12 Years a Slave、2013年公開、監督:スティーブ・マックイーン)や、『自由への道』(原題:Emancipation、2022年配信、ウィル・スミス主演)、ドラマ『地下鉄道 自由への旅路』(原題:The Underground Railroad、2021年配信、監督:バリー・ジェンキンス)などの作品を観ていただくだけでも伝わるのではないかと思います。
そうした過酷な状況を、祖先が耐え凌ぎ生き抜いてきた過去として決してないがしろにはしないものの、当事者たちは「ブラックカルチャー」とは思っていません。なぜなら、奴隷制度は植民地主義に成り立っているものであり、あえて言うなら白人が作り出した「ホワイトカルチャー」だからです。
辛さ比べではないけれど、重ねられるものでもない
イベントの主催者はこのフライヤーのイメージの説明として、「苛酷な奴隷制度下でも、この踊っている黒人女性のように束の間のお祝いごとを楽しむ瞬間があった」ことを、自身のイベントの周年記念と重ねたとのことですが、「衣食住揃っているうえに音楽を演る選択肢と余裕がある現代人が束の間のお祝い事を楽しむこと」とは、あまりにも乖離があるのではないでしょうか?
さらに付け加えると、ジム・クロウ法(人種隔離法)が法制度上で廃止を迎えたのはほんの60年前、私たちの親世代が子供だった頃(2025年現在で60代半ば〜70代の人たち)で、2025年現在でも表立った差別はもちろん、構造的な差別や無意識レベルでの慣習的な差別も依然として存在しています。つまり、法制度上での廃止ですらあくまで表面的な変化に過ぎず、根本的な問題の所在は、社会構造の奥深くに居座ったままなのです。それを生き抜いてきたブラック・ブラウンの人たちの生き様と、自分たちのパーティを重ねる必要があったとは到底思えません。
もちろん、現代都市人の抱える個々の悩みを無碍にするつもりはありません。それぞれで悩みや辛さの大小・程度は異なれど、悩みや辛さから来る「痛み」まで、否定するつもりもありません。HIP HOPがブラックコミュニティのみならず、世界中で共感を得ているのはそういった「自分の」苦しみを芸術に昇華したり、ラップという表現方法を使って物語を語っているからであって、「他人の」過去や先祖を自らのアイデンティティの一部のように表現してカッコつけているからではありません。
「リスペクト」とは?当事者不在でしかできないならその理由を考えて
このような表象がまかり通るのは「日本」という黒人人口が少ない限られたコミュニティだけです。例えば、今回と同様にブラック・ブラウンの人が全く関わっていないイベントを日本人がニューヨークやロサンゼルスで開催したとして、このフライヤーが問題にならないと思いますか?「日本にはその人たちがいないからいいじゃないか」と考えるのであれば、主催者が口にした「リスペクトしている」という言葉には何の意味もありません。HIP HOPの基礎を自ら否定しているも同然で、文化の盗用(カルチュラル・アプロプリエーション)と言わざるを得ません。
これはなにも、今回が初めてのことではありません。もちろんアメリカでも似たようなディスリスペクトは度々持ち上がりますし、世界中で黒人文化を模倣している人たちの間では恐ろしいほど一般的に横行しています。主催者が愛している、尊敬していると自負している文化の当事者の意見や不快感を差し置いて「自分はこうしたい」「イベントの都合上…」などと自分の意向を優先することは、果たしてリスペクトと呼べるでしょうか?
意図が伝わらない上に説明責任の放棄
このフライヤーの意図が第三者にとって視覚的に伝わらないことも問題で、これについては歴史背景への理解不足と、恣意性が窺えます。このフライヤーの、奴隷時代を美化するともとれる歪んだイメージを目の当たりにして、ブラック・ブラウンの当事者たちが歴史的に受けてきた苦難を軽視されたり、当事者や第三者が傷ついたとしても、その痛みを「受け取る側の問題」として切り捨てるのは、表現者としての責任を放棄することにほかなりません。こういった間違ったイメージというのは、人の無意識に植えつけられ、無自覚に当事者の社会的地位向上を防ぐ要因になります。
大袈裟と思うかもしれませんが・・・例えば、黒人、と聞いて、どのような「イメージ」が思い浮かびますか?直接話したり接したりしたことがないのであれば、そのイメージが偏見の域を超えることはなく、あなたの意識の中で黒人が完全な一個の「人間」としての現実味を帯びることはありません。
社会の大多数がそういったイメージを持つことによって、当事者の人たちが不当な扱いを受けたり、不自由をすることがあるのであれば、それはれっきとした差別です。差別撤廃を少しでも願っているのであれば、勝手に当事者の人を描いたり、彼ら・彼女らのことを語る時にそれが相手方の意識をどう変えてしまうのか、ますます注意しなければなりません。
以上の紐解きがあっても、「表現者である手前受け取り方をコントロールできない」「そう思う方がいるかもしれない」というコメントは、妥当でしょうか?「これは問題がある表象だ」ということを理解できていたら、大事な周年のフライヤーを、当事者が問題視しているにもかかわらず押し切っていく姿勢にはならなかったのではないでしょうか。
不快になったことに対する謝罪は求めていない
初めに話をした後にSNSに投稿する説明案を一度いただきましたが、その中にある謝罪の中身が、自身の無知から出た表現に対してではなく、「不快な思いをさせてしまったこと」に焦点を置いていたことも、(無自覚の特権意識を持っている人の行動とそっくりで典型的ではありますが)何が問題だったのかが腑に落ちておらず、不快に思った方に責任を転嫁するパターンでした。イベント開催前にフライヤーのデザインに至った背景を投稿するのは難しいとのことでしたが、本当に間違ったことをした、と感じたのであれば、フライヤー自体を変えるまではせざるとも、SNSに投稿することはそんなに難しいことだったのでしょうか。
ブラックルーツの人やブラックカルチャーを作り上げて来た人たちに対するリスペクトを如何に行動で示すのか、「ブラックファン」誰もが意識して考えなければなりません。HIP HOPは知識と、知識に裏打ちされた行動を重んじる文化です。今回の主催者に限らず、ブラックカルチャーを愛する人であれば誰でも、発信する内容や表象には責任を感じて欲しい。この一件を、自分の表現や発信がカルチュアル・アプロプリエーションになっていないかを考えるきっかけとし、また今後の活動においても気に留めていただくきっかけとしていただければ幸いです。
2025年8月9日

